京、大坂、そして江戸に産業や経済力が集中した時代、これらに劣り遅れをとった周辺地域は、中央から「辺境」と疎んじられ、北方での辺境は、東北と蝦夷地(北海道)であった。そこは、アイヌの人びとの天地であり、産業に無縁とみられたのである。

寛政12年(1800)皆川周太夫が藩命により、安政5年(1858)松浦武四郎が幕命により、十勝を探険、踏査したのは、その一翼を担ったのであった。つまり、武力を背景に持つ国家体制を備えた国家間の万国公法(国際公法)を用いての合意により、アイヌの人たちの天地「蝦夷地」は、日本領土となったのである。こうした動向によって、後年、帯広と呼ばれることとなった場所の存在と自然、人文にまたがる地理的範囲は規定されていったのであった。

 

砂金地「戸賀知」

蝦夷地交易図

蝦夷地交易図

当時資源を持たない松前藩は、砂金採掘による財源確保を始めた。その後、和人地での枯渇と、東蝦夷での鉱脈発見情報とが重なり、寛永10年(1633)には、日高へと東進した。さらに、ゴールド・ラッシュは猛スピードで山脈を越え、寛永12年(1635)には、戸賀知(十勝)に達したのである。江戸期の文献「松前旧事記」に「戸賀知」と記されての「十勝」の本格的登場は、もっぱら、和人経済圏へ供給する砂金地としてであった。

戸賀知では、紋別川(大樹町)、そして歴舟川(大樹町)と、延べにして20ヵ所の砂金地が所在し、多くの鉱夫が馳せ参じたのであった。

他方、先住者にとって、砂金地戸賀知の出現は、川床を掘り返され、水路を変更され、さらに漁労を妨げられるなど迷惑そのものであった。

 

明治を迎えて

十勝の産業と経済は、幕府の衰退と崩壊、そして、明治政府の樹立と続いた外界の大変動に伴い、明治2年(1869)の蝦夷地「北海道」改名、「開拓使」設置、「場所請負制」廃止という体制下で歩んだのである。

 

大津の盛衰

明治30年代末の晩生社小作人住居

明治30年代末の晩生社小作人住居

十勝大津は、激浪”シケ”で知られた難港であり十勝の玄関口としての役割があった。沖合停泊の船からハシケに乗り換え上陸、数日間の休息を経て、改めて「川舟」利用で奥地へ向かうというのが、移住の道順であった。日を経ずして、移民と物資は、川舟中心から鉄道中心へと変化、殖民都市帯広へと向かったのである。

 

 

晩成社

十勝帯広市街地(明治27年ごろ)

十勝帯広市街地(明治27年ごろ)

明治10年代、我が国はいたるところ、興奮と冒険心とで満ち溢れ、特に地方の富裕層にあっては、欲求不満と希望とが交差したのである。十勝農業の先駆的役割を果した晩成社の代表社員(業務執行者)依田勉三も渦中の1人であった。豪農の三男として生まれた彼は「ケプロン報文」に大いに刺激を受け、新天地での飛躍を夢みて北海道・十勝を選んだのである。

同16年(1883)勉三ら13戸は下帯広に到着、同18年、無願開墾の不安を取り除く13万坪の下渡を得て事業を開始した。同19年(1886)当縁村生花苗における牧畜と同35年のバターや練乳の製造、同44年の牛缶大和煮等の缶詰製造、帯広における同19年のハム製造、同22年の馬鈴薯澱粉製造、同26年の木工場の開設、同28年の亜麻製線工場の建設、途別(幕別町)における水田開発等、どれもが新産業への試行錯誤であった。また入居地下帯広を離れた事業地移動は無肥料耕作に原因の地力低下による減収防止の「荒らしづくり」「渡り耕作」の結果であり、下帯広へのこだわりはなかった。

多彩な事業展開あればこそ、周回遅れの十勝が新産業畑作の分野で立ち遅れをみせることはなかったのである。工業分野にあっても同様で、晩成社は工業技術上の苗床の役割を果たしたのである。

 

十勝帯広市街地の誕生

明治19年(1886)3県廃止によって設置された「北海道庁」は、移住者任せであった殖民地選定を自らのものとしたのである。十勝国については、同25年(1892)アメリカのホームステッド法を範に下帯広(帯広市)を基点に、四方の原野を殖民区画制としたのである。この中で将来の中心都市を想定し、この地を格上げの大市街地としたのである。市街地の役割は未開の原野に孤立する移住民の生活不安を取り除くこと、農産品の集散地とすることにあった。この役割を課せられたから帯広は農村が漸次市街地化した街ではなかった。農村成立に先行した非農業世帯からなる密居的集落の官設サービス・センター市街地であった。無人の原野に宅地の集合体を設け、行政、産業、経済、文化の中心的役割と、指導的役割を官より付与されたもので、この点、帯広は旭川ともにその事例である。

 

十勝監獄

大通商店大売出し (明治40年)

大通商店大売出し (明治40年)

明治28年(1895)北海道集治監(監獄)管下の釧路分監(標茶)から分離した「十勝分監」が下帯広村に設置された。帯広設置の理由の第1は、十勝がロシアと接せず屯田兵不用の開拓可能地であったこと。第2は、道内の受刑者が8000人と過大収容であったこと。第3は、近間に市街地と未開墾地が所在したことであった。

長年、不平等条約改定を懸案としていた政府は、文明国の実物展示として、近代的な集治監を必要とし、後年「十勝監獄」と称された十勝分監もその1つとなった。内実は受刑者労働を投入しての開拓が目的であり、開庁前の大津街道、開庁後、同31年(1898)の広尾街道の道路開削ともども、その意図にしたがったものである。

ちなみに、帯広の小売業は一時期、監獄の持つ膨大な購買力に大きく依存していたのであり、そして、小売商が販売した雑貨等の移入代替品は、この監獄製であった。

 

馬産地

帯広馬市(大正5年ごろ)

帯広馬市(大正5年ごろ)

北海道における畜産の眼目は、交通と物資輸送の使用馬育成であったから、馬産は、農業とは直接関係を持たない異業種であった。明治19年(1886)晩成社が当縁村生花苗で牧場を開設したのが、民間牧場の十勝創始である。

露戦争による好景気成金国家に成金地が多数出現し、その代表格が帯広であった。この成金地の経済力で4年(1915)開校の十勝姉妹職業学校(帯広三条高校)に続く、9年(1920)の十勝農業学校(帯広農業高校)12年(1923)の帯広中学校(帯広柏葉高校)および帯広大谷女学校(帯広大谷高校)と、校数では釧路を越え、函館、小樽、旭川に次ぐ中等教育機関を短期間に開校させた。

 

ビート工場

亜麻工場事務所(大正期)

亜麻工場事務所(大正期)

亜麻に続く工芸作物として奨励されたのは「甜菜(ビート)」であった。十勝では、明治22年(1889)晩成社による試作が実施されていた。ビート糖業は北海道内では14年(1881)紋鼈(伊達市)、続いて札幌と操業されたが失敗に終っていた。大正期に入って糖業が再開された直接の原因は、大戦による供給不足からの糖価高騰であった。末端価格である帯広小売でも、5年間に6倍の値上がりであった。

 

 

大戦の終了

第1次世界大戦は大正7年(1918)ドイツ敗北で終了し、復興が進行するにつれて、雑穀輸出は減少し輸出価格はそのつど下落した。物価という物価は底無しに下落し、不況の嵐が吹きまくり「帯広電気」と「十勝水力電気」、「帯広魚菜市場」と「十勝魚菜市場」などの合併が盛んとなり新設のビート工場が立往生した。

 

天災と人災

市制祝賀の日の広小路(昭和8年)

市制祝賀の日の広小路(昭和8年)

帯広市街は、家屋が道路よりも低目の石狩道路(国道38号)界隈は、床下浸水となったのである。そして、目抜きの大通りでさえ安閑とはできない状況であった。

洪水の原因は異常気象であった。しかし、決定的要因は、森林の伐採と原野の開墾による産業活動を反映した自然変動であった。凶作の場合も原生的な地力の劣えを知りつつ、さらに投機的な耕作を目的に施肥を行った営利目的から発生の人災にほかならなかった。

6年(1931)翌7年そして9年と十勝は連続して洪水と凶作に見舞われた。こうして、町内の商工業は冷酷な自然の摂理と経済恐慌の両面からおびやかされた。

5月に降雪をみた6年(1931)の作況は、平年作比で54%の出来作、価格比で31%であった。これに反し、雑穀相場は大戦時を思わせる1本調子の高騰となったが、あくまでも、作況悪による品不足”無い物高”現象であった。

 

天皇陛下行幸と黄金道路

出征兵士見送り (帯広駅頭、昭和14年)

出征兵士見送り (帯広駅頭、昭和14年)

昭和11年(1936)9月29日から3日間、天皇陛下が帯広市に初めて行幸された。陸軍大演習総監として御来道の前後に、拓殖実情と産業振興を御視察された「軍事行幸」であった。十勝における巡幸地は北糖帯広工場、十勝農業学校(帯広農業高校)、そして「庁立十勝拓殖実習場(大樹村)」と農業関連施設であった。

御親閲は本道を4区分して、旭川、帯広、函館、そして札幌の各都市で実施された。

 

平時都市の戦時停滞

帯広アルコール工場

帯広アルコール工場

昭和11年(1936)9月29日から3日間、天皇陛下が帯広市に初めて行幸された。陸軍大演習総監として御来道の前後に、拓殖実情と産業振興を御視察された「軍事行幸」であった。十勝における巡幸地は北糖帯広工場、十勝農業学校(帯広農業高校)、そして「庁立十勝拓殖実習場(大樹村)」と農業関連施設であった。

御親閲は本道を4区分して、旭川、帯広、函館、そして札幌の各都市で実施された。

19年(1944)4月、重軽爆撃機編成の「鏑部隊(第1飛行師団)が浜松から帯広緑ケ丘飛行場に移駐した。また「熊部隊(第7師団)」も旭川から移駐し、司令部を西5条南9丁目「十勝会館」とした。そして隣接した商工奨励館、十勝公会堂とともに、関連施設とされた。帯広集結はすべて千島、北海道東部への米軍来攻を想定したものであった。こうして、帯広市は2個師団配備の「臨時軍事都市」となり、市経済は国家依存から軍事依存へと転じた。

この20年(1945)7月、米グラマン艦載機が帯広上空に飛来し、戦況の徹底的不利と産業力の差を思い知らされたのであった。

 

敗戦直後

帯広営林局

帯広営林局

第2次世界大戦は、昭和20年(1945)8月、我が国の敗戦をもって終結となった。翌9月、帯広の最低気温はマイナス4.9度を指し、この年は大凶作であった。10月、米軍第8軍第307連隊250名が帯広に進駐した。占領軍は熊部隊司令部跡、十勝会館を本部に、帯広国民学校(帯広小学校)南校舎を宿舎とした。そして、陸軍部隊の解散と帯広飛行場滑走路を、ダイナマイト破壊したのである。以降6年8ヶ月に及んだ米軍支配は、十勝の大凶作と帯広の軍事施設解体から始まったのである。

 

食糧難と高物価

はとや百貨店

はとや百貨店

敗戦直後の食糧危機は、農業生産力の低下、輸入食糧の途絶に原因があった。さらに軍隊からの復員者、海外からの引揚者合わせて、1355万人の消費増も困窮に拍車をかけたのであった。完全失業率18%という最悪下での小売業の再出発は、帯広駅前と大通駅(十勝鉄道)前に、地べたにゴザを敷き、戸板に代用食、古着を並べた露店からであった。物資不足、商店再開の遅れから、過渡的代替施設として、市役所、警察が出店を認めたのであった。

21年(1946)道路中央で背中を合わせるバラック店舗「新興マーケット」が8丁目線(夜店通)で開業した。入店者はこの地に既得権を持った玄人露店商と、「帯広市戦災者連盟」所属の戦災者、樺太引揚者であった。統制解除品の野菜、魚に統制品を含めたヤミ市であった。入手経路を明らかにできない”何でもあり”がここの市の魅力で、敗戦服(軍服)やモンペを売る向かい側の旧店と相俟って街一番の集客であった。

翌22年(1947)マーケット・ブームが起った。1番目は満州、蒙古引揚者による「満蒙マーケット(満蒙第1相互会館)」で、帯広駅西側での開店であった。そして後年、これを地上3階地下1階の「はとやデパート」にまで発展させた。若干遅れて、満州引揚者による「丸満マーケット(丸満連鎖店商業会)」が、西1条南9丁目に開店し、さらに5丁目線道路立地の「電信通マーケット」が続いた。

日本罐詰工場

日本罐詰工場

32年(1957)の川西・大正両村との合併により、帯広市の住民登録人口は、約9万5400人となった。新人口には、自衛隊第5管区総監部(第5師団)約3800人が含まれた。以後、帯広市は伊丹市(兵庫県)や宇治市(京都府)と並び、自衛隊効果が見込まれる”街”となった。

 

 

農業王国十勝の誕生

帯広市出身の本名武代議士がライフワークとした36年(1961)制定の「農業基本法」は、食糧の確保と、農業世帯と勤労世帯との所得格差の是正が目的であった。基本法によって以後、全産業補助金の40%が農業に投入されたのである。

十勝農業の伸長要因は畑作、畜産に特化した地域戦略が、基本法の方向性と合致したことにあった。これによって、自他とも認める「農業王国十勝」が誕生し、帯広市商工業はその波及効果を満遍なく受けたのであった。

 

地価上昇

「中核都市」、別名「拠点都市」重視の時代が到来し、目抜き通りの、「一等地価格」もこれを反映することとなった。55年(1980)西2条南9丁目平原通り、サニーデパート(坂本ビル)前は、国土庁「公示価格」平方メートル当たり58万4000円となった。

これは、旭川市に次ぐ道内都市第3位の商業地評価である。つまり、帯広の1等地価格は、人口20万から25万規模の県庁所在地、水戸市、秋田市に匹敵し、山形市、福井市を上回った。

 

地域建設業の躍進

宮坂壽美雄

宮坂壽美雄

帯広市本店の地域建設業は、戦後しばらくは、開拓工事を拠り所とした、一時的な緊急避難の時期を迎えていた。24年(1949)「建設業法」施行に合わせて、「帯広建設業協会」の前身「十勝建設業協会(会長宮坂壽美雄)」が設立された。翌25年に至り、「北海道開発法」の下、道路工事中心の公共工事が開始された。

開発事業受注の地域建設業の大半は、土木請負業から出発し、建設請負が加わった経緯を持ち、ひ弱さやいびつさがついて回った。この脆弱さが災いし、資本と技術の勝る本州大手は高ランク、地域建設を低ランクとみる不適切な 役所格付 に悩まされ続けた。官庁受注の4分の1は、帯広大手を下請とした本州大手が占めたとの推定もあり、帯広勢には、忠実な下僕との”やゆ”がつきまとった。

産業の持つ裾野の広さから、地域建設業への評価と期待は高く、業界リーダーの商工会議所会頭就任は、当を得たものであった。こうして、27年(1952)就任の第3代目会頭、宮坂壽美雄(宮坂建設工業社長)、35年就任の第4代目会頭萩原延一(萩原建設工業社長)、43年就任の第6代目会頭河西十二郎(宮坂建設工業社長)、それに、38年道路整備効果を満身に受けた運輸業の小林信次(帯広通運社長)が、第5代目会頭に就任した。

小林信治

小林信治

商業都市を標榜した戦前の帯広であれば、思いもつかない非商系出身者が連続して産業経済界の方向舵を握ったのであった。しかし、帯広における代表的な時局対応産業が地域建設業であったことからすれば、至極当然の会頭就任であった。

 

十勝ステーツフェア

十勝ステーツフェア開催

十勝ステーツフェア開催

昭和61年(1986)から平成7年(1995)にかけて、毎年、帯広の森を会場に、十勝の味覚を帯広で味わう収穫祭「十勝ステーツフェア」が開催された。

63年(1988)には、高料金で味を楽しむ異色のグルメ博覧会「世界・食の祭典」が札幌・函館両市で開催されたために、その影響が懸念された。”食祭”は、不本意な結果で終わったが、ステーツは61年(1986)24万6000人、平成2年(1990)31万6000人と目論み通りの集客であった。農家1戸2台まで普及したトラクターの運転出展が盛り上がりの原動力であった。入場者数不足に頭を痛めた年もあったが、辛抱強く「十勝の収穫物」を語り続けたことに、開催意義と成功が存在した。

 

土地バブルの崩壊

バブル生成前の我が国の宅地総額は、59年(1984)746兆円であった。それが、6年後の平成2年(1990)約2.7倍の2077兆円へと膨張したのである。1年間の土地値上がり幅が同じ1年間の国民の汗の結晶であるGNPの額よりも大きい、極めて不健全な状態の到来であった。そのバブルは東京で起こり札幌へと飛び火し、遅れて帯広に飛来した。

 

バブル崩壊とマネー敗戦

長いもの収穫

長いもの収穫

平成2年(1990)の株式バブル崩壊に続き同5年、土地バブルが崩壊した。昭和60年代後半4年間に燃え上がった投機熱は、平成10年のGDP(国内総生産)の2.8倍、1255兆円を資産喪失させたのであった。帯広の産業と経済も、この不均衡のツケを一挙に支払わされるはめになったのであった。

翌10年、産業振興に功績を有し、市内企業に人材を供給した拓銀は、北洋銀行へ道内分の営業譲渡を行った。帯広支店は大正5年(1916)設置以来80余年の歴史に幕を閉じ、「北洋銀行帯広中央支店」と看板替えした。新生「北洋銀行」は、大正11年(1922)帯広町創業の「十勝無尽」を前身のひとつとする第2地方銀行であった。受皿銀行の貸出残高は、拓銀の4分の1規模であったから、「小」が第2分類債権(要注意債権)を持つ「大」を背負い込む緊急事態であった。残余の旧拓銀債権は「整理回収銀行」に移され、直ちに同行札幌事業局帯広分局が設置された。12年、60%の債権回収をもって、分局は閉鎖となった。平原通り・広小路のかげりは、14年、商工会議所調査の空店舗49店、未利用空地30個所と明らかとなった。通行量も減少し、ここを主会場とする「七夕まつり」や「おびひろ盆おどり」の開催時だけが往時の賑わいとなってしまった。商店振興会は大型店の郊外移転の引き止め策を協議し、商工会議所もヨーカドー退店後の処置に奔走したのであった。

平成2年(1990)の株式バブル崩壊に続き同5年、土地バブルが崩壊した。昭和60年代後半4年間に燃え上がった投機熱は、平成10年のGDP(国内総生産)の2.8倍、1255兆円を資産喪失させたのであった。帯広の産業と経済も、この不均衡のツケを一挙に支払わされるはめになったのであった。

翌10年、産業振興に功績を有し、市内企業に人材を供給した拓銀は、北洋銀行へ道内分の営業譲渡を行った。帯広支店は大正5年(1916)設置以来80余年の歴史に幕を閉じ、「北洋銀行帯広中央支店」と看板替えした。新生「北洋銀行」は、大正11年(1922)帯広町創業の「十勝無尽」を前身のひとつとする第2地方銀行であった。受皿銀行の貸出残高は、拓銀の4分の1規模であったから、「小」が第2分類債権(要注意債権)を持つ「大」を背負い込む緊急事態であった。残余の旧拓銀債権は「整理回収銀行」に移され、直ちに同行札幌事業局帯広分局が設置された。12年、60%の債権回収をもって、分局は閉鎖となった。平原通り・広小路のかげりは、14年、商工会議所調査の空店舗49店、未利用空地30個所と明らかとなった。通行量も減少し、ここを主会場とする「七夕まつり」や「おびひろ盆おどり」の開催時だけが往時の賑わいとなってしまった。商店振興会は大型店の郊外移転の引き止め策を協議し、商工会議所もヨーカドー退店後の処置に奔走したのであった。

 

起業地帯広

十勝毎日新聞社

十勝毎日新聞社

市中企業による管外多店進出は、昭和40年代に石油販売の「第1熱源(社長原田啓一)」や家具販売の「長谷川産業(社長長谷川晃三)」にみられた。いずれも、隣接都市の釧路市や北見市を経ての大商圏札幌市進出であった。

異色の管外進出は、「十勝毎日新聞社(社長林光繁)」の関連会社による9年「函館新聞」創刊であった。それは、ブロック紙「北海道新聞」によるローカル紙淘汰への挑戦であった。

同12年の自衛隊第5師団の「旅団」化発表と”負の連鎖”に怯えた街を「お菓子の街」へと誘導したのは、「六花亭製菓(社長小田豊)」であった。

同社の13年単独所得18億9000万円は、管内第2位ながら、関連通算では実質首位であった。製造地を市内と近郊の中札内村に限定するのは広々とした十勝平野とこれにまつわる開拓物語を商品の背景と考えたのであった。全国通用の同社ブランドの誕生を小豆、乳製品、砂糖の生産地に結びつけるむきがある。こうした原料資源は”与件”に過ぎない。「見えざる資源(ブランド)」の成立はあくまでも市場調査と新製品開発力の賜物であった。ベストセラー「マルセイバターサンド」もその作品なのである。同時に、この遠隔地メーカーのハンデを取り除いたのは、ほかならぬ、”クール宅急便”であった。

柳月製菓

柳月製菓

銘菓「三方六」で知られるもう1つのメーカー「柳月製菓(社長田村昇)」とのブランド2社基軸によって、「雑穀の街帯広」は、「お菓子の街帯広」へと変貌し、製菓業は苦境の街に清潔感と明るさを与えたのである。

現在の十勝の中心街

現在の十勝の中心街

六花亭製菓

六花亭製菓

 

 

 

 

 

 

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